772950 / 夏目漱石 / 開発チームSS
吾輩ハ猫デアル吾輩は猫である。
名前はまだ無い。
どこで生れたか
とんと見当がつかぬ。
何でも薄暗いじめじめした所で
ニャーニャー泣いていた事だけは
記憶している。
吾輩はここで始めて人間というものを見た。
しかもあとで聞くとそれは書生という、
人間中で一番獰悪な種族であったそうだ。
この書生というのは
時々我々を捕えて
煮て食うという話である。
しかしその当時は
何という考えもなかったから
別段恐しいとも思わなかった。
ただ彼の掌に載せられて
スーと持ち上げられた時
何だかフワフワした感じが
あったばかりである。
掌の上で少し落ちついて
書生の顔を見たのが
いわゆる人間というものの見始めであろう。
この時妙なものだと思った感じが今でも残っている。
第一毛をもって装飾されるべきはずの顔が
つるつるしてまるで薬缶だ。
その後猫にもだいぶ逢ったが
こんな片輪には一度もでくわした事がない。
のみならず顔の真中が
あまりに突起している。
そうしてその穴の中から
時々ぷうぷうと煙を吹く。
どうも咽せぽくて実に弱った。
これが人間の飲む煙草という
ものである事はようやくこの頃知った。
この書生の掌のうちで
しばらくはよい心持に坐っておったが、
しばらくすると非常な速力で
運転し始めた。
書生が動くのか自分だけが動くのか
分らないが無暗に眼が廻る。
胸が悪くなる。
到底助からないと思っていると、
どさりと音がして眼から火が出た。
それまでは記憶しているが
あとは何の事やら
いくら考え出そうとしても分らない。
ふと気が付いて見ると書生はいない。
たくさんおった兄弟が一疋も見えぬ。
肝心の母親さえ
姿を隠してしまった。
その上今までの所とは違って
無暗に明るい。
眼を明いていられぬくらいだ。
はてな何でも容子がおかしいと、
のそのそ這い出して見ると非常に痛い。
吾輩は藁の上から急に
笹原の中へ棄てられたのである。
ようやくの思いで笹原を這い出すと
向うに大きな池がある。
吾輩は池の前に坐って
どうしたらよかろうと考えて見た。
別にこれという分別も出ない。
しばらくして
泣いたら書生がまた迎えに
来てくれるかと考え付いた。
ニャー、ニャーと
試みにやって見たが
誰も来ない。
そのうち池の上を さらさらと
風が渡って日が暮れかかる。
腹が非常に減って来た。
泣きたくても声が出ない。
仕方がない、何でもよいから食い物の
ある所まであるこう
と決心をしてそろりそろりと
池を左に廻り始めた。
どうも非常に苦しい。
そこを我慢して無理やりに這って行くと
ようやくの事で何となく人間臭い所へ出た。
ここへ這入ったら、
どうにかなると思って
竹垣の崩れた穴から、
とある邸内にもぐり込んだ。
縁は不思議なもので、もしこの竹垣が
破れていなかったなら、吾輩は
ついに路傍に餓死したかも知れんのである。
一樹の蔭とはよく云ったものだ。
この垣根の穴は今日に至るまで
吾輩が隣の三毛を訪問する時の
通路になっている。
さて邸へは忍び込んだものの
これから先どうして善いか分らない。
そのうちに暗くなる、腹は減る、寒さは寒し、
雨が降って来るという始末でもう一刻の猶予が出来なくなった。
仕方がないからとにかく
明るくて暖かそうな方へ方へとあるいて行く。
今から考えるとその時は
すでに家の内に這入っておったのだ。
ここで吾輩は
彼の書生以外の人間を
再び見るべき機会に遭遇したのである。
第一に逢ったのがおさんである。
これは前の書生より一層乱暴な方で
吾輩を見るや否やいきなり
頸筋をつかんで表へ抛り出した。
いやこれは駄目だと思ったから
眼をねぶって運を天に任せていた。
しかしひもじいのと寒いのには
どうしても我慢が出来ん。
吾輩は再びおさんの隙を見て
台所へ這い上がった。
すると間もなくまた投げ出された。
吾輩は投げ出されては這い上り、這い上っては投げ出され、
何でも同じ事を四五遍繰り返したのを
記憶している。
その時におさんと云う者は
つくづくいやになった。
この間おさんのさんまをぬすんでこの返報をしてやってから、
やっと胸のつかえが下りた。
吾輩が最後につまみ出されようとしたときに、
このうちの主人が
騒々しい何だといいながら出て来た。
下女は吾輩をぶら下げて主人の方へ向けて
この宿なしの小猫がいくら出しても出しても
御台所へ上って来て困りますという。
主人は鼻の下の黒い毛をひねりながら
吾輩の顔をしばらく眺ながめておったが、
やがてそんなら内へ置いてやれといったまま奥へ這入ってしまった。
主人はあまり口を聞かぬ人と見えた。
下女は口惜しそうに吾輩を台所へ抛り出した。
かくして吾輩は
ついにこの家を自分の住家と
きめる事にしたのである。
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